宮本武蔵について

宮本武蔵は本当に強かったのか?相手が弱かっただけ?本当に強かったと言える理由とは

宮本武蔵は、恐らく日本で最も知られた剣豪です。しかし、あまりにも伝説や逸話が多いことから「本当に強かったのか?」という疑問の声も絶えません。

確かに、数百年も前の人物が本当はどのくらい強かったのか、本当の所は誰にも分かりません。しかし、宮本武蔵の技と精神を追求している我々二天一流の修業者としては、宮本武蔵が本当に強かったと言える根拠は十分にあると考えています。

そこでこの記事では、宮本武蔵はなぜ強かったのか、その理由を詳しく解説します。

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宮本武蔵の強さに関する懐疑的な考え方

「生涯で60回以上戦い、その全てに勝利した」宮本武蔵と言えばこのような文言を思い出す人も少なくないと思います。

正確には、『五輪書』の「地の巻」に、以下のような記述があります。

其後、国々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十余度迄勝負すといへども、一度もその利を失はず。其程、年十三より二十八、九迄の事也。

引用:魚住孝至『定本五輪書』(2005)

つまり、13歳から28、29歳の間に60回以上の勝負をして、その全てに勝利したということです。

このような記述を見た一部の後世の武術家、武道家や作家などの歴史愛好者は、「本当にそんなに戦ったのか」「弱い相手と戦っただけじゃないのか」「言うだけなら誰でも言えるだろう」と考え、「本当は強くなかった」と主張するようになったようです。

しかし、私たちは宮本武蔵は本当に強かったと考えています。そこで、その根拠をこれから解説します。

まずは、宮本武蔵は弱かったと考える人が根拠にする「塚原卜伝との仕合」から説明します。

宮本武蔵は塚原卜伝に負けたのか

宮本武蔵の逸話の一つに、塚原卜伝との仕合があります。塚原卜伝とは、鹿島新当流をひらいた戦国時代の剣豪です。逸話では、塚原卜伝と宮本武蔵という伝説の剣豪二人が戦い、宮本武蔵の一撃を塚原卜伝が鍋蓋で止めてみせたことで、宮本武蔵は己の負けを悟って去って行ったと言われています。

この逸話を知る人は「宮本武蔵も負けていたんだ」と思われると思います。しかし、実はこの逸話は後世の創作だと考えられます。

なぜなら、塚原卜伝の没年は元亀2年(1571)と言われており、一方、宮本武蔵の生年は最も早くて天正10年(1582)と、宮本武蔵が生まれる10年ほど前に塚原卜伝は死亡しているからです。

よってこの話自体が後世の作り話と考えるのが正しいでしょう。

また、この他にも居合の達人何某が宮本武蔵に勝負を挑み宮本武蔵が負けを悟って相手の勝ちを宣言したというような話がありますが、そういった話を裏付ける事実は存在しません。

このように「宮本武蔵が負けた(負けを認めた)」という話がいくつか残されているのは、「宮本武蔵に勝った」ということが当時の兵法者たちにとって己や己の流派に「箔を付ける」ことだったからではないかと考えられます。つまり、「誰それは宮本武蔵に勝った」という話が現れること自体、宮本武蔵の技量は当時から広く達人級と認識されていたと言えるのではないでしょうか。

宮本武蔵は卑怯な手段で戦っていたのか

また、宮本武蔵の小説や漫画を読み「宮本武蔵は卑怯な手段で勝っていたのではないか」と考えられることもあるようです。確かに、卑怯な戦い方ばかりしていたなら、本当に強かったとは言えないかも知れません。

しかし、宮本武蔵が卑怯な戦い方をしていたというのも、後世のフィクションが多いと考えられます。

我々は、宮本武蔵は日本剣豪史上最高の実力の持ち主であると考えています。卑怯な手段というと、たとえば遅刻戦法が一般的に有名です。しかし宮本武蔵がこのような戦法を用いたというのは、いくつか伝わっている伝説の一つに過ぎません。

たとえば有名な巌流島の決闘は、宮本武蔵没後間もなく建立された小倉碑文によれば「両雄同時に相会し」とあるように、史実では記録に残っている全ての勝負において、正々堂々を絵に描いた戦いをして全て勝利を収めていました。

対戦相手が弱かっただけではないのか

宮本武蔵の逸話を聞いて、対戦相手が「現代では名前も聞かない流派が相手じゃないか」と考え、そもそも対戦相手が弱かっただけなのではか、と考える人も多いようです。

しかし、これも間違いだと考えています。

宮本武蔵が決闘をした時代は、剣術が最も発展した戦国時代末期から江戸時代初期です。その時代にトップクラスの実力者であった足利将軍家兵法師範の吉岡流や細川家兵法師範の巌流といった達人たちを相手に生涯で60回余りも真剣勝負を行い、全てに勝利しています。

対戦相手の流派が現代で名を聞かないのは、当時はトップレベルの実力を誇っていたものの、宮本武蔵に敗れたことで名声を失い、その結果、歴史から姿を消してしまったからだと考えられます。

そのため、対戦相手が弱かったために勝ち続けられたのではない、と考えるのが正しいのではないでしょうか。

有名流派と戦っていないだけではないのか

それでも、「宮本武蔵は柳生新陰流などの有名流派とは決闘していないのではないか」と思われるかもしれません。

しかし、あまり知られていませんが、実は柳生新影流と戦った記録もあります。

柳生新陰流の雲林院弥四郎という、細川家の兵法師範を務めるほどの達人を相手に(一説では)細川忠利の御前で仕合をしており、宮本武蔵は相手に全く技を出させず、相手をわざわざ斬る必要すらないほどの圧倒的な実力差で勝利していたと伝わっています。

また宮本武蔵と面識があり、柳生宗矩から印可を与えられていた渡辺幸庵という人物が、以下のように書き残している史料が残っています。

「但馬(※柳生宗矩)にくらべ候てハ、碁にていハば井目も武蔵強し」

柳生新陰流が徳川将軍家兵法師範であったことから直接的には決闘していませんが、同時代の他流派の総帥・継承者レベルの達人に対しても大きな実力差をもっていたと考えられるのではないでしょうか。

宮本武蔵は野人で格式や伝統を持っていないのではないのか

宮本武蔵の強さについてご理解頂けましたでしょうか。それでも、宮本武蔵の強さについて「野人」というイメージがあり、伝統と格式ある流派には劣るのではないか、と考える向きもあるようです。

小説や映画などのイメージから、このように考える人がいるようですが、宮本武蔵は養父であった当理流の兵法者・宮本(新免)無二より、幼少の頃から兵法は当然のこと、教養面でも上級武士として超一流のエリート教育を受け、当理流の正統継承者として育てられていたことが分かっています。つまり、野人というイメージからは大きく異なり、伝統・格式のあるバックグラウンドを持っていたのです。

なお、幼少の宮本武蔵が学んだ当理流は、京八流の一派である円明流(青年期の宮本武蔵が立てた円明流のいわば本家)の兵法者であった宮本(新免)無二が打ち立てた流派であり、それを基にして宮本武蔵は自身が経験した数多くの実戦経験に基づく工夫改良を重ねて二天一流を打ち立てました。

その精華が『五輪書』を始めとした二天一流の伝書です。

当時は無学文盲の兵法者の方が多く、自分の名前すら書けない者がたくさんいたという時代でした。そのような時代背景を考えますと、宮本武蔵は当時でも破格の教養の持ち主であり、二天一流は他流派に劣らない伝統と格式の上に成立した流派であることが分かります。

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