当流の流祖である宮本武蔵は、剣豪の中でも突出して逸話や伝説が多く、その分「どこまでが本当なんだろう?」と疑われる存在でもあります。
特に懐疑的な作家や歴史愛好家からは、
「五輪書は宮本武蔵が作ったのではない」
「五輪書には原本が存在しないから、後世の人が作ったのだ」
と言われることもあります。
二天一流を修業する私たちとしては、こうした間違った情報が蔓延して、二天一流や流祖が歪んだ見方をされることは避けたいところです。
五輪書相伝の経緯や宮本武蔵が書いてきた兵法書を見ていくことで、五輪書偽書説が根拠のない間違った説であることが分かります。
目次
五輪書以前の兵法書
一般的に宮本武蔵が書いた兵法書と言うと、『五輪書』が知られています。しかし、実は宮本武蔵はそれ以前にも、以下のように複数の兵法書を書き残していました。
- 『兵道鏡』1605年
- 『兵道鏡』増補版1611年
- 『兵法書付』1638年
- 『兵法三十五箇条』1641年
- 『兵法三十九箇条』
- 『五法之太刀道』
- 『五輪書』1643年〜1645年
この中でも、特に『兵道鏡』『兵法書付』『兵法三十五箇条』『兵法三十九箇条』『五輪書』の項目には対応しているものが多く、それぞれを見比べると内容が徐々にレベルアップしていることが分かります。
つまり、宮本武蔵は生涯をかけて追求した剣術の実践を、その時のレベルによって兵法書として書き記してきたのです。
『五輪書』が偽書であると主張する方々は、これらの兵法書の内容に目を通しているのでしょうか。これらの兵法書を読めば、それが宮本武蔵という一人の兵法者によって書かれたことが分かるはずです。
それぞれの兵法書の詳しい内容や史実的な研究については、宮本武蔵研究の第一人者である魚住孝至先生の『定本五輪書』『宮本武蔵ー日本人の道ー』に書かれていますので、ぜひご覧ください。
『五輪書』偽書説が生まれた歴史
では、そもそもなぜ「五輪書偽書説」が生まれたのでしょうか。
『五輪書』が相伝されてきた歴史を見ますと、福岡・黒田家に二天一流を伝えた寺尾孫之丞が宮本武蔵から『五輪書』を相伝されており、熊本に二天一流を伝えた寺尾求馬助は『兵法三十九箇条』と『五方之太刀道』を相伝されています。
そして後世、福岡と熊本で、それぞれが相伝された伝書を流儀継承の秘伝書としてきました。
こうした歴史の流れの中で、宮本武蔵からどのような経緯でそれぞれの伝書が伝わったのかを知らない一部の修業者が、『五輪書』を根拠無く偽書と言いだしたことに『五輪書』偽書説は端を発しています。
また、歴史上は原本が存在しない伝書類は数多くあります。武道伝書以外でも、たとえば『源氏物語』や『枕草子』なども原本は存在しませんが、現代でも『五輪書』偽書説を言う人は、果たしてこれらも偽書と言っているのでしょうか。
『五輪書』の原本が存在しないことがそのまま偽書説に繋がるのであれば、これらについても偽書説が出なければおかしいですよね。